History of TED`S #1

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落第生のわだち

第一回 日本サーフィン・ビジネスの夜明け

 

この年になるまで、”本当にまじめに遊んできて良かった”というのが僕の本音だ。

当時、仕事に忙殺されてきた大人たちの中には、

日本は最悪のストレス社会だと決め込む人も大勢いたが、

私のように好きなことを、言ってしまえば遊びを仕事にできた者もいたと考えれば、

日本もまだまだ捨てたものではなかった、そう思わずにいられない。

世の中についてをあまり真剣に憂うより、

自分はこうありたい、という物事に全力を傾けた方がいい。

世の中をどうにかするだなんて大それた事を叫びながら、

いつの時代も世を騒がせ続ける政治家を目指すより、

そのエネルギーを自分自身の夢に注ぐ大人がたくさんいる社会の方が、

遥かに楽しいはずだから。

限られた生涯。

少しでもストレスをストレスと思わない人生を送るためのヒントになればと、

僕のドタバタ劇をここに記してみることにした。

とはいえ、好例と呼ぶにはいささか適当にやりすぎた生き様ではあるけれど……。

サーフィンのある人生。勇気と明るさを味方に僕は生きてきた。

本当に素晴らしい遊びに出会ったものだと思う。

TED 阿出川(2010年)
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アメリカへ

「すみません、アメリカ行きの切符が欲しいのですが」と僕。

「ちょっとお待ち頂けますか?」と店員。

今の時代ならこんな会話は日常茶飯事だが、時は1960

年代の初頭。そして、これが僕がサーフィンと出会うことにな

るアメリカへの第一歩だった。場所は秋葉原にある日本通運。

なぜ日本通運かって? 理由は海外一般渡航自由化の前年と

いうことで、今のように旅行代理店などあるわけもなく、と

なればアメリカへ物資を運んでいる日本通運ならば、人間も

運んでくれるにちがいないと思ったからだ。なにより神田の実

家から歩いて行ける距離だったのも大きい。

当然、担当窓口など存在しない。代わりに〝何でも知って

いるぞ〞的な人物が出てきて僕の頭から足までを眺め、案の

定、最初は本気で相手にしてくれなった。無理もない、この日

の僕のいでたちはチェックのシャツにコットンパンツ。当時の常識で

は考えられない奇抜な洋服に身を包んだ、20歳にも満たない

若者だったのである。それでも話は何とか前へと進んだ。

「パスポートとアメリカのビザはお持ちですか?」と店員。

「それ、なんですか?」と僕。

「それがないと発券できません。それから運賃は二十九万

八千円です」

と、いかにも君には買えねーだろう、という態度の店員。

そこらじゅうが東京オリンピックに向けた工事の真っ最中。

うるさいことこの上ない昭和39年だったが、店を後にした僕の

頭の中はすっかり消沈していた。チケットは高いし、思った以上

にアメリカ行きのハードルが高かったから。行けなかったらどう

しよう……すでに友達に言いふらしてしまった。落第もばれて

しまう。恋焦がれたアメリカへの夢がついえ、友達に会わせる

顔がないと思うと恐ろしかった。なんとか親に頼み込むしかな

い。当時、親父はネクタイ屋を経営、会社も儲かっていて、ア

メリカでの経験がきっと商売にも役立つ云々と、僕は頭をフル

回転させた。

当時アメリカに行くにはアメリカ大使館で面接を受けなけ

ればならなかった。

「あなたはなぜアメリカへ行きたいのですか?」と面接官。

「英語の勉強をしたいからです」と僕。

「日本にいても英語の勉強はできるでしょう?」

このような面接を1時間ほど受け、面接官はこう続けた。

「翌日もう一度きてください。その際に親の預金残高証明書

を持ってきてくださいね」

約束通りに再訪すると、昨日の日系二世の女性が「この書

類にサインして」と誓約書を差し出した。そして残高証明を

見せると、「親は何をしているのか」と問われ、答えると誓約

書の内容を説明してくれた。以下は誓約書の一部。

《アメリカの女性と結婚しないこと》

婚約者がいたのでOK。

《アメリカで仕事をしてはいけません》

もちろん。

《見学をしたらすぐに帰ってきなさい》

はい。

1ドル=360円の時代に、持ち出し金の上限がたったの

500ドル。それでまともに旅行なんかしたら、10日で帰国す

るはめになる。しかし、とにかくこの場はハイハイで決め込んだ。

やがて黒皮で包まれた重厚なパスポートに滞在許可書の印が

押された。あとはチケットを入手するのみだ。

神田明神下で育った僕は、幼い頃からアメリカの物や人に

強く惹かれていた。戦後まもない時代にはМPが来るたび彼

らの元に走り寄った。当時、日本人の男子は福助のステテコに

ランニングで、女子はシュミーズ。家の中も外も格好は一緒で、

外出時の履物は下駄という時代。ゆえにМPのユニフォームは

あまりにまぶしく、その仕草の格好良さにも憧れた。僕が思

わずヒザあたりを触ると、MPたちはハーシーの板チョコやリグ

レーのチュウインガムを気前良く分けてくれた。飛び上がるよ

うな美味しさに僕はただただ驚き、いつしかアメリカ行きは僕

の夢となっていた。

話を戻そう。なんとか親を説得し、30万円を握り締めた僕

は再び日本通運のカウンターを訪ねた。今度こそ、アメリカ行

きのチケットを買うために。印が押されたパスポートを見せる

と、店員もようやく聞く耳を持ってくれたものの、それでも面

倒くさそう。僕はめげずに〝そこをなんとか〝という態度でお

金を見せると、ついに店員が折れてくれた。

「ジャパン・エアラインにしますか? それともパン・アメリカンにし

ますか?」

迷わず答えた。

「パン・アメリカンにします」

チケットは今すぐには発券出来ないので、3日後に届けると

店員は言った。とにかくアメリカへ行ける喜びと仲間への体裁

がたったことで、僕はすっかり舞い上がっていた。さっそく親にも

報告し、感謝の気持ちを伝えた。心中では〝いつ支度金の相

談話を切り出すか〞でいっぱいだったけれど。

親にはたびたび「アメリカで何をしたいんだ?」と尋ねられ

たが、本音を口に出すわけにはいかなかった。というのも、あの

頃のアメリカの娯楽情報といえば、テレビで見るか、ファッション

雑誌を見るかだけ。僕はもっともっと生の情報を知りたいのだ

けれど、当時アメリカへ行ける人といえば、勉強ができ国費で

渡米できる人、品行方正な商社マンなど、僕から見れば面白

みに欠ける人ばかりだった。とはいえ、「僕は遊ぶために、何か

しらの夢を見つけるためにアメリカへ行く」などという軟弱な

本音を親に言えるわけがない。しかし僕はこうも思う。東京

オリンピックで世界の外国人が三波春夫の歌に興味を抱くこ

とがあるならば、僕がハンク・ウィリアムスやエルヴィス・プレスリー

に憧れるのは極めて自然なことだと。ましてや反逆的児的な

生き方に憧れを抱きがちな青春期の若者ならばなおさら。

数日後、チケットとパン・アメリカンの航空バッグが届き、僕は

荷造りをはじめた。着るものは全部VANのジャケット。シュー

ズだけは日本にないので、アメリカに着いたらまず〝ケッズ〞を

買うと決めていた。色は絶対にブルーだ。

渡航時のファッションは黒のブレザー。学生仲間で結成され

たアイビー・ナイロンズ・クラブが、原宿に軒を構えるジェイムス・

リーに注文したものだ。これにグレーのパンツとアメ横で買った

コインローファーで決定。

日常に必要なものをスーツケースにパッキングしていたら、親

父が「これを持って行け」と浮世絵の本をくれた。500ドル

では足りないだろうし、万が一困った事態に遭遇したら、きっと

これが役に立つから、と言われ、重いけれど持って行くことにし

た。本音を言うと、親父にはお金を含めて頼みたいことが山

ほどあったのだけれど、最終的には〝なんとかなるさ〞の精神

で乗り切る決意を僕は固めた。

羽田空港までは親父がプリンス・スカイライン1500で

送ってくれた。チェックインはすんなりと行けると思ったが、荷

物が重量オーバーで、なんと6万円ほどもの追徴金を払わさ

れるハメに。親父が居てくれてほんとうに良かった。

見送りの友人の中で一番熱心だったのは、後にカメラマンと

して大御所となる坂田栄一郎。彼もアメリカに何かを強く求

めていたのだ。他にも多くの友人が見送ってくれて、なぜだか

涙が溢れてきた。アメリカへ行ける嬉しさ、落第からの逃避、

話が出来る友達がしばらくいなくなる寂しさ、さまざまな感

情が交錯した。だから涙の理由はうまく説明できない。

ブレザーの内ポケットにパスポートとコンサイスの英和辞典

をしっかりしまい、いざ飛行機に乗り込むタイミングで、乗務

員が相談を持ちかけてきた。エコノミークラスが満員なので、

ファーストクラスに乗ってほしいと言ってきたのだ。もちろん料

金はチャージされないと言われたが、仮に請求されたら有り金

をすべて出しても足りやしない。不安は募った。

ファーストクラスには6人しか乗客がおらず、もちろん一見し

て大金持ち。品格ある年配者ばかりだったから不安はますま

す増してきた。そして、海外で成功した人であろう日系人が

私に尋ねてきた。

「君は随分若いね」

「はい」

「どこへ行くの?」

「アメリカです」

「何をしに?」

「アメリカを見てみたいのです」

「アメリカはとても夢がある国だよ。勉強になるし、頑張りが

いのある国だ。面白いよ」

そして、私の肘掛にスタイル抜群のスチュワーデスが腰をあず

け、チキンかビーフかと英語で尋ねてきた。舞い上がる私は思

わずパスポートを提示してしまった。彼女は笑いながら〝ついて

来なさい〞という仕草で立ち上がった。怯えるように後を追う

と、彼女は私よりずっと背が高く、腰を左右に振って歩く姿は

まさにマリリン・モンロー。〝これからは白人専門で行こう〞など

と訳の分からないことを思いながら、同時に自分の弱さに打

ちのめされた。

キャリーで確認したビーフステーキをオーダーし、席に戻る。

やがて笑顔とともに運ばれてきた食事を僕は美味しく平ら

げた。同時に、このスチュワーデスなら話を聞いてくれるだろう

と思い、エコノミークラスから望んでもないファーストクラスに来

て、料金のことがとても心配です、と紙に英語を書いて読んで

もらった。すると彼女は、なんの心配もいらないから安心して

お休みなさい、と返事をくれた。

それにしても、こんなにも英語が理解できないとは正直困っ

た。いったい何年英語の勉強をしたのだろう。読み書きばかり

で、さっぱり本場の英語が聞き取れないじゃねーか。高校のと

き、英語が一番になったら文系の推薦をあげようと先生に言

われ、猛勉強した思い出が馬鹿馬鹿しく思えた。

経由地のハワイから先はエコノミークラスに戻った。機内には

アメリカ本土に帰る日焼けした白人ばかり。みんなアロハやプ

リントTシャツにトランクス、そしてサンダルとブレザーを着てい

た。僕はエコノミークラスの席の狭さより、自分が着ている堅苦

しいファッションが窮屈に感じた。

アメリカ人は海に居るときも買い物に行くときも、旅行に

行くときも同じ。便利さや快適さを自然に表現できる感性

は当時の日本人にはないものだった。日本でアロハシャツを着て

いる人はハワイアンバンドのグループくらいなもの。Tシャツにし

たって日本では福助の肌着が主流で、僕はアメ横で探し求め

たB.V.D.が宝物。すべてがカルチャーショックだった。

ついにロサンゼルスに到着。ちょうど夕焼けが沈んでどんどん

暗くなる頃で、僕はまた不安に襲われた。迎えは本当に来て

くれるのか……。この便であることは伝えてあったが、返事が

来なかったのが心配だった。そう、僕が羽田を出発した後の出

来事なのだが、神田の家に電報が届いたという。そこには「迎

えに行けない、面倒は見れない」という内容が記されてあった

そうだ。そんなことなど知らない僕は、ロビーで懸命に迎えを

探したが、出会えるわけがなかった。

僕は案内係のおばさんの所へ行き、得意のコンサイスを片手

に状況を説明した。そして、困った時のためにと知人が渡し

てくれた名刺を出すと、おばさんは親切に名刺の電話先に状

況を説明してくれているらしかった。受話器を置いたおばさん

は、名刺の人の部下が30分後に迎えに来てくれると教えてく

れた。それでも不安は消えなかったが、そんなとき、目の前を

金髪ポニーテールの若い女性が真っ赤なМG-Bに乗り、髪をな

びかせ走り過ぎていくのを見て、急に気分が盛り上がった。僕

はいま憧れのアメリカにいる。見渡すと、駐車場には夢の車た

ちで溢れていた。

迎えに来てくれた人が連れて行ってくれたのは7ドルのモー

テル。日本ではモーテルの印象が良くないので心配したが、部

屋はシンプルで清潔、快適そのものだった。

翌朝、直接面倒を見てくれることになったケン中岡さんが

迎えに来てくれた。今日は仕事で用事があるから一緒に回ろ

うと言って、なんと新車のキャデイラックに乗せてくれた。僕は

この車にクラッチがないことに驚いた。ハンドルをいとも簡単に、

手の平だけでくるくると回している。中岡さんは「パワーステ

アリングだからね」と教えてくれた。中岡さんは不動産会社

を経営していた。その人柄は誰からも尊敬されていて、だいぶ

経ってからガーデナ市長になったという噂を聞いたことがある。

「アメリカのどこを見てみたい?」

「別にここという所はありません。ただ観光地ではなく、本当

のアメリカの姿を見たいです」

「難しい問題だね。ここは日系人ばかりだからだめかな」

そんな話をしているうちに中岡さんの家に着き、昼だから

家で食事しようということに。奥さんはとてもスタイルが良

く、きれいな人で、子供2人もオボッちゃまタイプの髪形でき

ちっと七・三に分けていた。日本人でもこうなれるのだなと、

環境の違いに感銘を受け、僕もアメリカの空気をたくさん吸っ

て、頑張ってああなりたいとつくづく思った。

ご飯に塩昆布、味噌汁は結構アメリカの気候とも合うよ

うで、三杯もお変わりしてしまった。そんな時にもう一人の来

客があり、なんとミス・ユニバースである児島明子さんだった。明

子さんは中岡さんの奥様の妹だったのだ。彼女はロングビーチ

で催されるミスユニバース・コンテストの審査員で来ているとのこ

と。彼女は僕と同様の質問をされていたが、すべて明確に答え

ていた。アメリカでは明確な「こうしたい」という答えが必要なのだとつくづく思った。

アメリカでは車がないと本当に不便だ。歩くしか移動手段

がない僕はすぐに腹が減ってしまい、ホットドッグを食べまた歩

き、ハンバーガーを食べまた歩く。ひたすら食べ続ければアメリカ

人のような体型になれるかと思ったが、ならかった。

不便な生活を強いられたが、おかげで毎日食べる店でアルバ

イトをしているアレンという高校生と友達になった。犬も歩け

ば棒に当たるではないが、この不便さが、僕にチャンスをもたら

したことは確かだ。なぜならアレンこそが、僕がサーフィンを始

めるきっかけを作ってくれることになるからだ。

狭い日系人社会のなかで僕の噂は瞬く間に広まり、日曜日

にレドンドビーチで行われるバーべキューに誘ってもらえること

になった。海は適度な人数と晴天で、最高に気持ち良かった。

海の家もなく、聞きたくもない音楽が流れる日本の海とはや

はり違う。誰かが持ち込んだカセットテープからは、これから

社会現象にまで登りつめるビートルズやビーチボーイズの曲が

流れていた。不思議なことに、海水浴を楽しむ人は誰一人とし

ていなかった。代わりに海に入っていたのは、サーフィンを楽しむ

20 人くらい。音楽とあまりにもマッチした

その光景は、日本とはまるで別世界だった。興味が湧く湧かない以前に、僕は目

前のその光景を、はなから白人の世界だと、心の中で勝手に

遠い存在として捉えていた。

「今日はサーファーが少ないな。波ちいさいしね」

「サーファー、というのですか?」

「そうか、日本人でやっている人はいないだろうね」

ベーベキューで知り合ったひとりがボーディング・ハウスを紹介

してくれた。1ヶ月、3食付きで75ドルで滞在できるという。や

りたければ仕事も紹介してくれるそうだ。夜間の学校にも通

えるし、願ってもない話だった。観光ビザということも大した

問題ではなさそうだったし。

クリスという青年を紹介され、ボーディング・ハウスのルール、

そしてガーデナー(庭園士)という仕事があること、仕事は

とてもきびしいが、お金にはなるという話を聞いた。僕がぜひ

やりたいと言うと、クリスは機械や道具を使いながら、3日間

びっしり仕事を教えてくれた。

一人部屋が空くまでは、小田原出身のスズキさんと相部屋

だった。スズキさんは真面目で愉快な人だったので、先の見え

ないアメリカ生活に不安を抱える僕には心強かった。ボーディ

ング・ハウスはウエスタン・アヴェニューとヴェニス・ブルーバードがクロ

スした便利な立地に建っていた。近くには〝Safe Way〞とい

う、当時の日本では考えられない巨大なスーパーがあり、大き

なワゴンにものすごい量の食料品や雑貨をバンバン乗せて店内

を巡るアメリカ人たちに圧倒された。まちがいなく日本の一般

的な家屋や冷蔵庫で対応できる量じゃない。

僕のTEDというニックネームもここで生まれた。名付け親

はボーディング・ハウスのオカミさんで、「輝雄という名前はこっ

ちでは馴染まないから、そうね、テッドにしましょ」と、いとも

簡単に決まったのである。

「アメリカはタイム・イズ・マネーよ」

どのガーデナーも1ヶ月、1年という短い単位で契約してい

る。一定して温暖な気候と広々した土地がある(広い庭をもつ

家が多い)からこそ成り立つビジネスだ。仕事は刈った草を大

きな麻の袋に入れ、ホースで水を巻き、水圧でゴミを吹き飛ば

し、また次の家へ急ぐというもの。

こうして仕事をはじめた僕だったが、思わぬところで父が渡

米前に渡してくれた浮世絵が僕を助けてくれた。

その日はあまり広くない庭が仕事先で、隣の塀の向こうで

白髪のおばあさんがプールサイドで静かに本を読んでいた。僕

は注意力が散漫だったのか、狭い庭で芝刈り機をターンさせる

キッカケを失い、暴れる芝刈り機が塀をぶち破ってしまった。そ

れでも勢いは留まることなく、芝刈り機はおばあさんが住む

家のプールに飛び込み、沈んでしまったのである。僕はしばらく

声も出ないまま立ちすくみ、我に返るや否や、日本式の深謝

表現、すなわち土下座の姿勢になってボスに謝った。しかしボス

は言った。

「アメリカではあらゆることがお金でしか解決できないのだ

よ。機械は直るけれど、今日はもう仕事が出来ない。とはいえ

責任はボスである私にもあるから、私たちの損は考えなくて

良い。それよりおばあさんと話をつけてきなさい」

僕はおばあさんと交渉したが、修理代が500〜700ド

ルくらいは掛かるとのことだった。手持ちは400ドルしかな

い。そこで僕が思い出したのが浮世絵の本である。僕はおばあ

さんに「現金はありませんが、それ以上の価値があるものを日

本から持ってきています」と告げた。

ボスは僕の言うことを懸命に通訳してくれて、おばあさんは

「日本の浮世絵はすばらしいから、それで無かったことにしま

しょう」と、なんとか事を荒立てずに治めることができたので

ある。

こんなミスをしながらも、ボスは私を月、火、水曜と専属で

雇ってくれて、2週間後には日給で25 ドルをくれるようになっ

た。当時、日本の平均的な月給が2万円に届くかどうかとい

う時代。とりあえず3日働けば1ヶ月はここで生活出来る、

と僕は思った。さらに木、金曜も違うボスが雇ってくれた。やが

てボスたちの評価を聞いた女将さんは、私に極力良い条件の

仕事を回してくれるようになった。仕事をしたがる人が少な

い週末に関しても、私は喜んで引き受けた。なにせ昼で仕事

が終了し、いつも通り25ドルもらえたのだから。

仕事にも慣れ、経済的にも潤いが出てきた頃、僕は本格的

に英語を勉強したくなって知人に相談した。するとLAのア

ダルト向けスクールが1年間25セント! と教えてくれて即決

した。その学校に通う生徒は南米人やヨーロッパ人ばかりで、

日本人は私を含めて3人だけ。それにしても教科書、ノート、

鉛筆までついて25セントだなんて、もう何処を探してもないだ

ろう。授業は英語のみですべてが進む。日本の英語の授業が

いかに役立たないものかと呪ったものだ。

それでも英語は次第に理解できるようになっていった。する

と何処へ行くにも怖気づかなくり、アメリカでの僕なりのライ

フスタイルが一気に形成されはじめた。休みにはアナハイムへ射撃

をしに行ったり、ナッツベリー・ファームへ行ったりした。ワッフル

に苺を乗せたスイーツを食べ、こんなにも美味しいもの世にあ

るのかと唸った。

そんな最高の時間を過ごす一方で、アメリカではベトナム戦

争による徴兵の話題が蔓延していた。観光ビザでアメリカにい

る僕が徴兵されることはないと思っていたが、こんな噂まで。

「ある一定期間滞在していたら、日本人でも徴兵される。しか

もそういう人間は決まって最前線へ送られる」

僕はいくらアメリカの市民権が貰えると言われても、それ

は願い下げだと思った。もちろん徴兵されることはなかったが、

その代わり、旦那がベトナムへ行ってしまい暇をもてあましてい

る奥様連中に、ボーリングだのバーだのと借り出される機会は

多かった。ラスベガスへも定期的に通うようになり、バクチには興

味がなかった僕ではあったが、あの煌びやかな雰囲気を味わえ

たのは最高だった。

1 9 6 4 年 、 ガ ー デ ナ ー 時 代 。 シ ボ レ ー ・ インパラをバックにガーデナー仲間と共に。
1 9 6 4 年 、 ガ ー デ ナ ー 時 代 。 シ ボ レ ー ・ インパラをバックにガーデナー仲間と共に。

知人が1957年型のマーキュリーを持っていたので、5ドル

と試験用紙6枚を丸暗記し、2日後に名刺サイズのライセン

スを手に入れることが出来た。以来、仲間が乗る1956年

式シボレー・インパラ、1963年式シボレー・コルベア、1964

年式シボレー・ノバなどでドライブを楽しんだ。

ビザの期限が近づいてきた。ボスに相談すると移民局へ一緒

に行ってくれて、「英語の勉強をもっとしたいから」と申請す

ると、3ヶ月分のビザをすぐにくれた。ボスは「何回でも更新

できるし、いざとなったら一度メキシコへ行って、すぐ入国すれば

いい」などと色々な知恵を教えてくれたが、僕はそうそう長い

のも考え物だなと、思うようになってきた。僕はアメリカに移

住したいのではなく、何かを発見したくて此処に来たのだ。

公衆電話が気になって仕方がなくなった。「コレクトコールで

日本に掛ければ君は一銭もかからない」と知人が教えてくれた

が、結局はどちらかが払うことに変わりない。しかも3分間で

4500円。日本の1ヶ月の給料が2万円弱と考えると法外

な値段だ。けれど彼女のユリの実家は酒屋だし、商売をやって

いるからOKかなと僕は勝手に判断し、コレクトコールで初の国

際電話。

「もしもし、元気?」

「みんな元気よ」

「こっちはすごいよ。想像していた以上。ここまで進んでいると

は思ってなかった」

「仲間の皆は就職で大変みたい。あなたの話になると、ついで

に私もアメリカへ行ったら? ってからかうのよ」

「もし来たかったら親父にユリのことを話して、アメリカに来さ

せるように話してみるよ。OKが出たらまた連絡する」

彼女は特に心配していなかったけど、不法就労のこと、ボー

ディング・ハウスのことだけは心配していた。ユリと話した後だ

からかもしれないけれど、徐々に自分が今の生活に慣れている

ことが怖くなってきた。本来の目的を忘れ、このまま惰性で

アメリカ生活を送るのか、それとも何かを見つけて日本へ帰国

し、挑戦するのか……。夜遊びへ繰り出しても盛り上がりき

れない近頃の自分に気づいていた。

ルームメイトのスズキさんが毎日のように「暑い、暑い」という

のが煩わしくなってきた。

「スズキさん、その〝暑い、暑い〞ってやめてよ。それからアメリ

カ人のことを〝ケトウ〞っていうのもやめてよ」

少しずつ仲間との会話も弾まなくなってきていた。自分の

気持ちの変化が隠しきれなくなり、アメリカ滞在の目的が周

囲と少し違ってきたのが原因だと思う。ボーディング・ハウス

の仲間の多くは、アメリカに留まり生活が出来ることが最良

だった。一方、僕はといえばアメリカでの収穫を日本に持ち返る

ことが目標で、極端に言えば、こんなことをしている場合では

なかったのだ。

そんな日々の中、久し振りにアレンが働くホットドッグ屋へ行

くと、今度の土曜日にビーチに行こうぜと誘われた。しかもア

レンのコンバーチブルで行くというので、これは今までにない楽し

みとなった。
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今 と な っ て は 日 本 で も 常 識 の マ クド ナ ルド だ が 、 当 時 の 日 本 は 車 が や っ と 普 及 し は じ め た 時 代 。と こ ろ が ア メ リ カ で は 、 す で にド ラ イ ブ ス ル ー で ハ ン バ ー ガ ー が 食 べ ら れ た 。 何 を 見 て も カ ル チ ャ ー シ ョ ッ ク は 大 き か っ た 。

約束の土曜日、コンバーチブルには専用のレコードプレーヤー

が装着してあり、なんと針が下に付いていて、どんな振動で

もOKなのだという。日本のガタガタ道ではダメだろうなとは

思ったものの、その頃の日本はクルマにレコードプレーヤーを装着

すること自体、考えられない発想だった。

途中、サーフショップに寄りワックスを2セントで買い、ビート

ルズの曲を流しながらサンタモニカへ到着した。ビキニ姿の女の

子が多く、白い砂浜に寝そべり本を読んでいた。とにかく太陽

に当たることが大好きなようだった。目尻の上がったサングラ

スがよーく似合っている。

アレンはサーフボードを抱え、砂浜の上で滑り止めのワックス

をデッキ面にまんべんなく塗り、海に浮かべた。腹ばいになり、

腕はクロールのように水をかき、沖へ向かう。私は砂浜に座って

眺めていたが、6ドル95 セントで買ったトランクスで気分はいっぱ

しのサーファーだった。

やがてアレンが「TEDもやってみろよ」とボードを貸してく

れた。大学時代スキーに明け暮れていた経験から、こんなの簡

単だよと思ってボードに乗ってみたが、これが意外に、いや、も

のすごく難しい。ボードに立つどころか、バランスを取りながらク

ロールのように腕を回すことさえおぼつかない。〝立つまでは止

められない〞と何度もトライするがまるでダメ。気づけば時間

を忘れ、無心で波を追っていた。

以来、毎日毎日サーフィンというスポーツのことを考えるよ

うになり、週末のたびに海へ繰り出すようになった。当然のよ

うにサーフボードが欲しくなると、アレンがサーフボードを譲っ

てくれる、と言うではないか。天にも昇る気持ちだったが、時

同じくして、日本の彼女からアメリカに来るという手紙が届い

た。僕はこうしちゃいられないと、壮大なプランを考えた。ニュー

ヨークから出発し、アメリカを横断するのだ。

アレンにこれからのことを伝え、「サーフボードは買えなく

なったけれど、もう一度ここに戻ってくるから、そしたらまた海

に行こう」と約束した。ハウスの仲間にお世話になったお礼を

し、旅の計画を話すと羨ましがられ、その選別で270ドルも

のお金が集まってしまった。涙声で深く頭を下げ、日本に帰る

前に必ずここに寄ると約束した。

必要最小限の荷物だけを持って、いきなり喧騒のNYへ。そ

こは活気にあふれていた。旅はユリとお互いの価値観を確かめ

合ういい機会だった。この時、僕はおぼろげながら日本に帰って

やりたいビジネスについて想像するようになっていた。それをユ

リに話すと、彼女はすごく乗り気になってくれて嬉しかった。

日本に帰ってやりたいこと……それはもちろんサーフィン。ま

だプランも何も決まっていなかったけれど、漠然とやり遂げら

れる自信があった。

僕らはNYからアメリカを横断し、様々な出会いや経験に

恵まれた。まだまだ貧しかった日本を飛び出してアメリカへ渡

り、そこで見たもの、経験したこと、文化の違いが、その後の

僕らに大きな影響を与えたことは間違いない。

LAに戻り仲間と再会し、ひと通りの報告とお礼をした。

そしてアレンを訪ね、「日本に帰ってサーフィンの仕事をする」

と伝えると、彼は限りないサポートを約束してくれた。この話

はアメリカ生活でお世話になった田口さんをはじめ、友人にも

伝えた。多くの人が懐疑的だったが、田口さんだけはビジネス

としての可能性に興味を示してくれた。そして「必要な情報

は流すし、必要な物があれば送ってあげる」という心強い言葉

と共に僕を励ましてくれた。これで心置きなく日本へ帰れる

と僕は思った。

サーフィンというビジネス

日本で新しい冒険が始まる、そう考えると僕は居ても立っ

てもいられなくなり、3日後にはJALの飛行機に乗り込ん

でいた。途中、給油のためにハワイへ立ち寄ったが空港の外には

出なかった。中途半場な空き時間を持て余したが、かといって

カメラは売ってしまい手元にない。そこで、たまたま目が合った

人に記念写真を撮ってもらい、しかも写真を送ってくださいと

いう厚かましいお願いまでしてしまった。彼は明治製菓に勤め

るいかにも優秀な人で、一週間後に写真を送ってくれた。

帰国すると、友人たちが集まりアメリカのことを色々聞い

てきた。なかでも熱心だったのが、出発前と同様カメラマンの

坂田栄一郎だった。

すぐに実行に移さなければ。アメリカで見て来たこと、経験

してきたことを少しでも早くかたちにしたい。まわりの仲間

はすでに大学を卒業していた。僕は落第生ということで、また

後輩と一緒に大学に通わなければならない。サーフボードを造

りはじめれば、僕がアメリカで大きな発見をしたという証明

になる。

将来の展望を伝えると、父は快く賛成してくれた。そして

サーフボードを造るあたって心強かったのは、ユリの兄の存在

だ。彼はモーターボートを自作するのが得意で、FRP(強化

プラステイック)の扱いに長けていたのだ。

こうして僕らはまずベニア板をキールに貼り付け、その上を

ガラス繊維とFRPで巻き、耐水性を備えたサーフボードを

作り上げた。僕らにとっての初代サーフボードである。さっそく

サーフボードを鴨川や鵠沼へ持ち込み、波乗りを楽しんだ。ア

メリカで見たものとは大いに違ったけれど、比較をするものが

無かったのでこれで良とした。

義兄が川向こうの北千住で、本格的にサーフボードを作っ

ている人が居ると教えてくれたので、早速行ってみると、高橋

太郎氏であった。工場は道路を作業場としていて、よくパト

カーが来ては「ここは作業する所ではありませーん」。しかし

そんな事はお構いなし。一斗缶でゴミを燃やし、煙が隣の家屋

に入っても誰も文句を言わない、そんな時代だったのだ。

義兄から高橋氏の紹介を受け、「自分もこれを仕事にした

い」と想いを告げると、高橋氏は「日本に2〜3社あってもい

いよな、一緒に頑張ろう」とまで言ってくれた。高橋氏は長さ

150×幅30×厚さ15 ㎜のウレタンフォームを4枚譲ってくれ

て、僕らは北千住を後にした。材料はユリの実家がある南千

住の2階に運び込んだ。ここはユリの部屋だったのだが、アメリ

カから帰ってすぐに僕らは結婚し、この部屋を作業所にした

のである。

ストリンガーは10尺で、厚さ12センチの杉板を近くの材木

屋で買った。天気を見計らって外に馬を置き、杉板をサーフ

ボードのロッカー(反り)状に切り出す。もちろん鋸で切るのだ

から、かなりの時間と体力が必要だ。次に切り出したストリン

ガーと4枚のフォームをFRPで張り合わせる。FRPは硬化

剤をよく混ぜてはじめて効果を発揮するが、温度や湿度の違

いで硬化時間が変わる。暑い日はすぐに硬化が始まるので、

手際良くやる必要があった。特にストリンガーに張り合わせる

ときは自転車のゴムバンドを使い、2人掛かりで均等な圧力を

掛けて締め付けなければならない。圧力にバラつきがあると、ス

トリンガーが蛇のようにくねってしまうからだ。

翌日には完全硬化したシングルベッドのようなフォームの上

に、あらかじめ画用紙をつなぎ合わせたテンプレートを置き、ア

ウトラインを鉛筆で描いた。それを鋸で切り落とし、今度はス

トリンガーのロッカーに沿って切るのだが、これには氷を切る鋸

がベストだった。電気カンナを使いたい工程もあるのだが、2階

では音と粉が飛び散るので使えない。だから大工が使うカン

ナをはじめ、ほとんどが手作業で行わなければならなかった。

これだけの大きさなので、部屋はまたたく間の雪が積ったよう

になった。掃除をしたら大変な量の粉で、アメリカで見た工

場のそれとは雲泥の違いだった。とはいえ、我ながらシェイプは

良い出来だったと思う。その上に230番のガラスクロスを使っ

た。今日のようにオンスで呼ばれるのは、1960年代の後半

になってからだ。

8010番の樹脂にコバルトと硬化剤を良く混ぜてクロスの

上に流す。それをヘラでスクイージして気泡をなくし、フォーム

に接着させていった。この時のヘラはユリの実家が酒屋で味噌

を売っていたので、その味噌を取る時のヘラが最高だったのだ

が、すぐ薬品に犯されて駄目になってしまった。

片面が乾くと、今度は裏面も同じようにやり、また裏返

す。レールにテープを貼って液垂れを防ぎ、3900番という

ワックスを含んだ樹脂を塗り、乾いたらまた裏面を作業する。

気の遠くなるような工程だけれど、たとえ少しの失敗でも、

次の工程で直すとなるとさらに10倍の労力が必要になる。

気を抜くわけにはいかなかった。この工程までに、僕らはすでに4

日間を擁していた。

完全硬化したサーフボードは繊維が針のように固まってい

る。怪我をしないように注意して扱わなければならない。サン

ドペーパーで表面を整えるにあたり、この粉はフォームの粉とは

違ってガラス繊維を含むので、屋外で、しかも公園のような広

い場所でやりたかった。そこで兄が知り合いの土地を探してく

れて、40番、60番、80番、100番とペーパーを変えたりブロッ

クを使ったり、一日掛かりで磨きあげた。作業服は自動車修理

工から貰ったツナギのお古である。

仕上げを塗る前にフィンを付けなければならなかった。集め

のベニア板をフィンの形状に切り出し、木目の綺麗な経木にボ

ンドを使い、アイロンで貼りつける、その側をクロスとロービング

で包み、サーフボードと同じ要領で仕上げていった。その出来

は今考えれば、売りたくないくらいの芸術作品だったと思って

いる。そしてボトムのテールにフィンを装着し、また同じ様な工

程を繰り返し、ついにサーフボードは完成した。

サーフボードが作れるようになったはいいが、まだ生産ライン

もなく、ビジネスとして成り立たせるにはほど遠い状態。僕は

万が一、失敗しても家業を継げるよう、プリントネクタイで有

名な某社で働くことにした。営業職で、袋一杯にネクタイを詰

めて銀座や日本橋のデパート、小売店を回るという仕事だっ

た。何がいやだって、友達だけには見られたくなかった。しかも

一生懸命働いても月に2万8千円。ガソリン代にもならなかっ

た。ひとつ良かった点は、その会社は九十九里の白子に別荘

があり、月に何度かは掃除や雑草抜きに行く必要があったこ

と。サーフボードを持って社員を自分の車に乗せ、よく通った

ものだ。しかし、白子の波はオンショア気味で波数が多く、サー

フィンには向いてなかった。休みの日はやはり自分の時間

に充てたかったので、僕はやがてサラリーマンとの副業を苦痛

に感じるようになり、なんとしてもサーフボード作りを成功さ

せ、自分の職業にしようと決意した。

父は以前と変わらず僕を応援してくれた。しかし神田淡

路町の富士工機という会社がサーフボードを量産していてパン

フレットを用意していると知り、父は大丈夫かと心配したが、

僕には自信があった。

「大丈夫、この作りのサーフボードで海に入ったら、熱で破裂

してしまうよ。僕は現物をしっかりアメリカで見てきている。モ

ナカを作るのとは訳が違うんだ」

富士工機のそれはたしかバラクーダというサーフボードで、

発泡スチロールの上に紙を巻き、その上からFRPで加工した

ものだった。

僕はこの前作ったサーフボードとまったく同じ作り方で2

本同時にやってみた。時間の配分がうまくいき、樹脂が硬化

する待ち時間の暇がなくなり楽しくなってきた。この時には

電気カンナに排気パイプを工夫して装着し、部屋が粉だらけ

になるのを防げるようになっていた。しかし、さすがにFRPの

粉だけは防ぎようがなく、ユリの部屋はもう2度と寝泊りが

出来なくなった。日々試行錯誤の中、ピグメントのブルーの二

本のストライプ、レッドのストライプという2本のボードが完成

した。1本は自動車レーサーの米山次郎氏が買い、もう一本は

義兄の船舶関係者から葉山マリーナに飾らしてくれと要請

があり、運びこんだ。この頃のお客はスキーやレーサーなど、皆、

自動車を所有する新し物好き、チャレンジ精神旺盛な仲間た

ちばかりだった。

葉山マリーナに展示されたボードを見て、南千住まで訪ね

てきた青年がいた。後にパイオニア・モス代表となる田沼進三

君である。私が二階から顔を出すとちょうど目が合い招き入

れた。彼はガラス繊維の厚さを確めたり、どんな樹脂を使って

いるのかを見学に来たということだった。葉山マリーナのボー

ドの出来やアカ抜けたデザインに感心したらしい。

長女が誕生した’66年(昭和41年)の春、商標をTEDとして登録。

有限会社テッド・サーフボードとした。アメリカでの

僕のニックネームを使うことで、仕事における全責任が自分に

あることを強調したかったのだ。

当時、デパートで商品が扱われるということは、その商品と

会社が信用に値するという証だった。そこで僕は大学時代の

遊び仲間が宣伝部に勤務する、日本橋高島屋を訪ねた。彼

は後にシンガポール支店長になる商品開発部の大倉氏を紹介

してくれて、なんとその場で20本の発注書と取引契約書を

渡してくれた。こうして一ヶ月後にはそれらのボードがショーウ

インドウに並べられた……と言っても、夏物ファッションの添え

もではあったのだが。そのうちの1本を、両国にある整骨医

で育った岡野孝親、教彦兄弟が買ってくれたそうだ。別荘が

太東にあったからと、数年後に知り合ってから教えてくれた。

もう1本は蒲田の歯科医師が購入した。この客は片貝でやっ

てみたいから教えてくれとせがまれ、行ったはいいが地元の人

達と投網をやったりバーベキューをしたり、サーフィンをやる暇

はなかった。結局のところ、彼の仲間のひとりにサーフボード

を作りたい人がいて、その後何度も南千住に来ては長居をし

て、挙句の果てに自分で商売にしてしまったのを覚えている。

鵠沼に住むお客さんはスポーツ売り場を訪ねてカスタム・オー

ダーしていった。岡野兄弟が買ったサーフボードは4万5千

円だったが、カスタムは5万円を超える。儲けはもちろんだ

が、何より張り合いがあった。その客は大事な顧客とのこと

で、店員と私とで配達することになった。高島屋の配送場所

でダンボールと高島屋のバラの包装紙でボードを包み、コロナ

1600Sに積み配達した。レンガ作りの大きな新築の家で、

そうとうな大金持ちだったことは疑いの余地もなかった。

銀座にサーフショップを開いたマイケル柳田氏がTEDの

ディーラーになってくれた。モデルでもありハーフでもある彼は

雑誌に取り上げられることが多く、我々としてもいい宣伝と

なり助かった。両親がこれまた良い人で、マイケルのやることに

口を出すが、納得すればお金も惜しみなく出してくれた。取

り巻きには佐世保出身の通称サニーをはじめ、個性的な連中

がたくさんいた。

当時はまだ六本木や原宿が遊び場としてメジャーではな

く、人も少なかった。サーファーが出入りしたくなる店などは

皆無に近かった。だから我々は横浜の〝IG〞によく通った。店

内は真っ暗で目が慣れるまでかなり時間が必要だが、アメリ

カ人が多く値段も安く遊べた。なにしろ海に浜にとガソリン

代が大変だったのだ。妻は大学時代の友達からCMの仕事を

頼まれ、私は私でスキーの格好で時計の宣伝に出演するなど

便利屋をこなしていった。サーフィンだけではまだまだ経済状

況が安定しなかったのだ。

大学に籍を置いたまま早や6年が過ぎようとしていた。大

学は学園紛争により酷く危険な状況で、行く気にもなれず、

在籍していた芸術学部の連中までそんな事に振り回されてい

るのが不思議でしょうがなかった。そんな時間があるのなら

もっと遊べばいいのに。自由と個性が売り物であるはずの学生

が赤く染まって行くのが、ただただ許せなかった。母親から卒

業には60万円かかると言われ、ならばそれを事業資金にした

いと、僕は大学を中退した。

大学も辞め、ネクタイ修行も辞め、やるべきことはサーフ

ボード作りだけ。アメリカの田口さんからケッズのスニーカーと

グレッグ・ノールやマイク・ヒンソンの8ミリが送られてきて、友達やこれからお客さんになりそうな人達に見せた。

サーフボードは車に積みっぱなしだった。

#2へ続く….

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写 真 上 ) 1 9 6 9 年 、ハ ワ イ・ ワ イ キ キ で の シ ョット 。 撮 影 は ワ イ キ キ・ サ ー フ ク ラ ブ 、 ビ ー チ ボ ー イ の ク ラ レ ン ス . マ キ 氏
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1964年の鵠沼。TED サ ー フ ボ ード 第 一 号 は 、 飛 行 機 の 翼 の 内 部 構 造 か ら ヒ ント を 得 て 、 キ ー ル を 内 側 に 組 み 、そ の 上 に ベ ニ ヤ を 張 っ た も の 。 も ち ろ ん 、ビ ー チ に は ま だ サ ー フ ァ ー は い な い 。
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一時期は妻の実家、南千 住 の 二 階 が サ ー フ ボ ード 工 場 だ っ た と き も 。 こ の 二 階 で カ ス タ ム メ イド ・ サ ー フ ボ ード が 作 ら れ て い る だ な ん て 、 誰 が 想 像 で き た だ ろ う 。(
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1 9 6 6 年 、 伊 豆 白 浜 。 サ ー フ ボ ード を 購 入 し て く れ た お客さんや仲間と共に。当時はよく伊 豆 へトリップ に 出 掛 け た 。サ ーフトリップ の 先 駆 け と 言 っ て い い だ ろう 。
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南千住、ユリの実家、森田屋商店の二階がファクトリーだった。
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1966白浜
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1966白浜
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1966鵠沼
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1966鵠沼
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手縫いのワッペン、もちろんワッペンも自家製
img187のコピー
1966鵠沼

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