TED HISTORY

落第生のわだち 第三話

落第生のわだち

第三回 

1964年にはじまった僕のサーフィンライフ。

最初は誰もサーフィンなんて知らず、サーフボードもすべて手作り。がむしゃらな日々。振り返ると、後ろにはたくさんの仲間がいた。

そして’70年代。流れは急激に早くなった。独立する仲間たち。

ファッションはアイビーからヒッピーへ。サーフボードは日に日に短くなっていき、ロングボードはシーンから姿を消した。

時の流れは止められるものじゃない。僕にだって、たくさんのターニング・ポイントが訪れた。不安や悩みもあり、心配も掛けたけど、僕はいつだって、好きなように決断してきた。これからもそうだ。

だからこそ僕は胸を張って言える。人生とはなかなか面白いものだと。

前号までのあらすじ

1964年、夢を見つけるためにアメリカへと飛び出した大学生、阿出川輝男(TED阿出川)は、そこでサーフィンと出会い、大きな衝撃を受ける。帰国したTEDは日本にサーフィンを広めることを夢見て、右も左も分からぬままにサーフボード作りに没頭した。シェイプもビジネスも初めてのTEDは試行錯誤の連続だったが、噂を聞きつけた在日米軍サーファーに教えを請うなど、持ち前の運と行動力で「TEDサーフボード」を軌道に乗せ、その存在を知らしめていった。そんなTEDの元には、ドジ井坂、出川三千男、長沼一仁、阿部博など、後世のサーフシーンを牽引することとなる多くの男たちが集い、シェイプのノウハウを学んでいった。しかし才能にあふれ、独立心旺盛な彼らはやがて自らの城を築くことを夢見て、徐々にTEDから巣立っていくようになる。こうして日本は湘南を中心に、サーフィンという文化の土壌が形成されていった。
一方、TEDは何かと手狭な神田をベースにすることに限界を感じ、新たなユートピアを求めて千葉・太東に新たなショップ兼工場を立ち上げた。途方もなく田舎ながら、芳醇な波に恵まれた九十九里に、TEDはアメリカさながらのライフスタイルを広めていく。

時は1970年前後、ショートボード革命の波が押し寄せる、激動の時代である。

激動の’70年代

1969年に上映された『イージーライダー』は、世界中の若者の考え方や固定観念を180度ひっくり返し、旧体制に対する若者の反発を広げるひとつのきっかけとなった。そんな空気は多感なサーフィン社会にも蔓延し、アイビーを気取っていた若者たちのスタイルも、気づけばヒッピー文化の影響を色濃く受けたものとなっていった。

ご他聞に漏れず、この年までアイビールック全開だった僕もヒッピーになったわけだが、そこに至るにはひとつのきっかけがあった。家族で訪れたハワイ旅行だ。

ミュージック・イベントがあると聞いた僕は、妻の百合と子供2人を連れ、仕事がてらハワイへ飛んだ。会場へ行ってみると、ミュージシャンのひとりはなんとジミ・ヘンドリックス。会場に集うオーディエンスの人種、そして一帯に漂う異様な空気に危険を感じた百合は、子供を連れてそそくさとホテルへ帰ってしまった。そして僕だけがそこに居残り、ライブの熱狂に飲み込まれていった。激しく感化されて意識がぶっ飛んだ僕は、気づけばヒッピールックに変貌していた。そしてあろうことか、家族が待つホテルにたどり着いたのは、なんと一週間後という有様である。無論、あまりの変わり様に妻は驚いたが、彼女もまた僕のファッションに感化され、帰国する頃には2人して本場のヒッピーからお墨付きをいただくまでになっていた。

1970年初頭になると、海外で噂を聞きつけた多くのアメリカ人サーファーがショップに訪れるようになった。店はますます国際色豊かになり、アメリカで何が流行っているのかなど、リアルタイムで情報を入手でき、僕らのライフスタイルはよりいっそうアメリカっぽく染まっていった。

ちょうどこの頃、我が家にロイとシェリーというバックパッカーがふらりと訪れ、居候していた。2人はスバル・サンバーを購入し、布団を積み込み、それで日本一周をする計画を企てていた。2人はまず食べ物に慣れることからということで、色々な日本食に挑戦し、その結果、納豆と餃子が大好物となった。

あまり知られていないことだけれど、実はこの当時、僕はスケートボードの輸入も手掛けていた。もっとも、当時の日本ではまだスケートボードという呼び名ではなく、ローラーサーフィンと呼んでいた。サーフィン・ビジネスと平行し、このように新しいスポーツの商売も忙しくやっていたのだが、スケートボードもまたサーフボードと同様、やはり最初はすべて手作り。ウィールからベアリングまで自作し、ロイとシェリーにはずいぶん手伝ってもらった。当時、ショップを訪ねてくるアメリカ人には共通点があった。みんなニコンのカメラを欲しがるのだ。アメ横のカメラ屋をずいぶん紹介したものだ。面白いエピソードがある。
ロイとシェリーもまたニコンのカメラを購入し、やがて日本一周の旅を決行したのだが、静岡あたりであまりの道の狭さと文化の違いにメゲてしまい、一週間後に戻ってきて、即アメリカに帰国してしまったのだ。しばらく後、いきつけのカメラ屋から二人のプリントを預かったままで困っているという連絡が入った。代わりに僕が確認しに行ったところ、それらのプリントはほとんどが二人とも裸体で、しかも部分、部分あられもなく映し出されたものだった……。こんなものを家に持って帰ったら百合に何を言われるか分からないので、プリントはカメラ屋に頼んで処分してもらった。

スケートボードと言えば、八王子サマーランドの依頼でローラーサーフィン大会を開催した。それがTVに紹介されたのをきっかけにスケートボードが売れ始め、しばらくはベアリング詰めに追われる毎日をすごした。このローラーベアリング作りは、ローラーベアリングの内側に入れるベアリングを秋葉原で買い漁り、ローラーに八個ずつ詰めていくというものすごい忍耐のいる作業だった。一日に出来上がる限界が決まっていて、僕らは内職さながら夜な夜なベアリング作りに追われていた。出来上がるとジャー、ジャーと五月蝿?かった。

出来上がったスケーボードを妻の百合にテストライドしてもらったら、あっけなく骨折。医者の診断は“下駄履き骨折”という聞いた事もない症状だった。かくして彼女はスケートボードにおける日本で最初の骨折者? という名誉を手にしたのだった。

スケートボードの大会といっても、ゴーカードコースのタイヤを並べて、その間をスラロームでタイムを競う簡単なもので、旗の合図で滑り初め、計測はストップウオッチという原始的なのであった。

第二回の大会時には、空き缶に赤と青の色紙を巻いたものを使用した。この時くらいからデヴィル西岡、アキ秋山、女の子ではダブルこと八巻恵理子という高校生がスターの階段を登っていく。そして第三回はサマーランドの駐車場を使い、パイロンを設置しアルペンスキーのようにコースを製作。スタートとフィニッシュは自動計測器を使えるまでになった。さらにフリースタイルが種目に加わり、この時の記事は数ページに渡って雑誌メンズクラブに紹介された。そのメンバー中には後にボートハウスで大成功する下山氏も名を連ねていた。まだサーフィン専門誌がない時代だったから、たとえファッション誌でも、注目されることが彼らの励みになったことは言うまでもない。

しばらくして、日本初の伝説のスケートパークが千葉県太東海岸の近くに作られた。タニーサーフの創立者、大谷氏(故人)によるものである。コンクリートを駆使して作られたそれは、ボールをはじめとても画期的なもので、今振り返っても素晴らしい出来栄えだったと思う。ここでは大きなイベントが開催されるなど、スケートボードの発展にとても貢献した。

ストリートではサイドウォーク・サーフィンと呼ばれていたスケートボードだが、警察にとっては格好の獲物。見つかると即座に注意され、公園ではうるさいババアに怒られた。ついに行き場を失った僕たちは夜中、まだ開通していない首都高速インターの坂道に忍び込み、練習に精を出した。これはこれでかなりエキサイティング、しかも路面の質は最高で、僕らは首都高速が開通しないことをただただ願った。

ウィールもゴムからウレタンゴムへと変わり、ベアリングもプリシジョンに。静かでスムースな滑りになっていった。ボードはウッドからファイバー、そしてプライウッドとファイバーとの組み合わよりフレキシブルに。技術は日進月歩で進化した。参考までに、トム・シムスはゴムに変わるウィールを考えていた矢先、ホットドックを食べてながらふとひらめいたらしく、ウレタンゴムを型に流し込む方法を思いついたそうだ。彼はこれで20歳前にして億万長者になり、やがてスノーボードでも世界的に事業を拡大していくようになる。

1970年、サーフボード工場に名古屋から来た宮越が加わり、営業は脇本が担当した。脇本はかなりユニークな人間で、次から次へと面白いものを考え出した。ローラーサーフィンも僕と彼とで作り出したもので、今でも自慢できる一品だと思う。彼は浅草にアップル・サーフショップを開き、アイデアもののスキムボードでさらに忙しくなった。いつしかサーフィン以外の分野でも可笑しな事をやっている奴らがいる、とメディアに取り上げられるようになり、遂にはダイハツのCMで是非起用したいというオファーが届いた。さっそく僕と脇本は撮影現場へ。それはとても大掛かりな撮影だった。例えばトラックの上に撮影隊を乗せ、その脇を車に引っ張られてローラーサーフィンで走るなど……危険度百パーセントの撮影の連続で、挙げ句の果てにはお蔵入りになってしまった。

また、TVの企画では多摩テックをローラーサーフィンで直滑降で滑り降りるシーンがあり、ガードレールを突き抜けて落ちたり、派手にクラッシュしたり、怪我人続出。まったく宣伝にならず、商品も一台として売れなかったこともある。

僕と脇本は他にもいろいろ開発した。角度を変えられるフィンを作ったときは特許まで取ったにも関わらず、一枚も売れなかった。二人ともアイデイアは良いのだが、とにかく時代と需要に合わないものが多かった。その後も実りのないないイデア商品を作り続けたわけだが、失敗したところで落ち込むわけでもなく、若さの特権で突っ走り、さらに新たな夢に挑戦し続けた。

その後、一時代を共に盛り上げた脇本も巣立っていき、変わりに営業に就いた後藤(日暮里サンセットタウン)がその後のTEDを大いに盛り上げてくれた。

国際化の流れ

’70年代に入ると、海外自由渡航の規制緩和により、サーフトリップが商品化されるようになっていった。ハワイを目指すサーファーもちらほらと現れ出し、ワイキキ・サーフィンクラブ所属でアウトリガーホテルのビーチボーイをしていた日系人、ワタ渡辺が、日本人サーファーのために日米バンザイ・サーフィン大会をハレイワで企画してくれた。

前夜祭はワイパフにあるコミュニティセンターで催された。大掛かりなBBQとフラダンスに圧倒され、最初は萎縮していた日本人たちも、サーファーという共通項のおかげでカマアイナ(地域住民)と仲良くなるのに時間は要らなかった。ジョニー・フェインというマリブの帝王もゲストで登場し、えらく盛り上がったパーティーだった。

パーティにはドジ井坂、マーボー、岡野教彦、大野薫、それにツアーで来ていたチーム員が参加した。海外のサーファーにはマイケル・ホーやバジー・カーボックスたちが訪れ、交流セッションは大成功であった。マイケル・ホーは小柄ながらも言いようのないオーラを発していて、やはりその後スーパースターに成長していった。バジー・カーボックスについてはラルフローレン専属のモデルになり、ボーグの表紙を飾ったり、トーイン・サーフィンでマウイ、ピアヒのビックウェーブにチャージするウォーターマンに。私もレロイ・グラニスと会うことができ、この後のフォト・シューティングのインスピレーションを得ることができた。

マイケル.ホー、バジーカーボックスを囲む岡野教彦、大野薫

このサーフィン大会に出る選手全員のボードには、ひらがなのディケール入っていて、珍しそうに見る人たちの視線が可笑しかった。ちなみに、この時一番忙しかったのは妻の百合であった。なにせ本格的に英語を学び始めたばかりなのに、自分たちよりも若いサーファー連中を修学旅行さながらに引率しなければならず、しかも次女を抱っこしながらの通訳でアッチコッチから声が掛かり、ランチタイムすら休めなかった。参加したライダーやチーム員たちも波の違いに戸惑いながら、将来の糧となる大きな経験が積めたのではと思う。僕自身、改めて感じたことだが、ハワイではサーフィンというスポーツが確実に市民権を得ている。それがとても羨ましかった。

ハワイで仲間だったジェフリーの叔父さんは、ノースショアに別荘を持っていて、サーファーたちに貸していた。ある日、その叔父さんに用事を頼まれ、私はジェフリーと共に1970年式シボレー・カマロを運転し、とある別荘へ行くことになった。するとそこには、マイク・パーパス、イアン・カーンズ、マーク・ウォーレン達がライスにコーンをぶっかけて食べているではないか。アップカマーなサーファー達と出会えたことにとても感動したのを覚えている。マイクは日本のサーフィン事情について尋ねてきたが、オージーの大きな声にかき消され、近いうちにまた会おうという事で別れた。その後パーパスとは親交を深めるようになり、やがて日本全国をサーフトリップすることになる。

1971年、日本では渥美半島の赤羽根海岸で行われた全日本で、チームライダーの岡野教彦がジュニアの部で優勝し、面目を保ってくれた。ライダーが入れ替わってもTEDは健在だった。他にも、大野薫やカッチン(川南活)といったライダーに関しては、選手としてはもちろん、キャラクターとしての人気も高く、TEDのイメージアップにひと役買ってくれた。

カッチンは当時からヘンテコ(個性的)なサーフボードにしか興味がなく、好んでそんなサーフボードでサーフィンをしていた。

今ではオルタナティブ・サーフボードシーンのカリスマと目されるシェイパーとなっているのだから、時代というのは巡り巡るものだと思わずにいられない。

ライダーとサーフィン業界の関係は、今では切っても切れないものであるが、アメリカはこのライダーシステムを1960年代の後半にはすでに確立していた。僕もそのビジネスモデルに倣い、有望な若者を見つけてはチームライダーに起用し、早くからライダーたちが使用しているサーフボードをシグネーチャーモデルとして販売した。この時には独立してしまっていたが、エド小川のエドモデルなどがそうで、人気や実力のあるライダーのそれはとてもよく売れた。

EDモデル、このロゴがドロップアウトのロゴの原型となった

全日本にはグレッグ・ハグリンとフィリッパ・フォルンガーも観戦に来ていて、グレッグは私のニコノスに興味を持ち、カッチンを撮りに海に入っていった。それがキッカケで、グレッグは帰国後にサンタバーバラの大学で映画を勉強する事になり、その後『FANTASEA』という名作サーフムービーを世に送り出す。その後、僕がサンタバーバラを訪ねたとき、グレッグの紹介で合うことができたのがビッグ・ウェンズデーで時の人となったジョージ・グリノーであり、彼にはサーフィン映画を作る上でのアドバイスをたくさんもらった。

グレッグハグリンと

ショートボード革命期だった当時、サーフィン業界は物価の高騰が激しかった。サーフボードの値段は五万円から六万円になり、長さも3メートルから2メートル前半とかなり短くなった。五十円だったワックスは百円に、T—シャツは千円前後、トランクスは二千五百円だった。ボードの長さと言えば、この激変期にカリフォルニアのストーン・ステップスのコンテストに行った時、ダノ・タカヤマに会うと彼は「ロングボードの時代は終わった」と嘆いていたのを覚えている。それくらいショートボード化の波は激しく、シーンからロングボードが消えつつあった時代だったのだ。

仕事の方は忙しかった。流行の移ろいが激しい時代だったので、売れる物を探しにカルフォルニアやハワイへの往復も頻繁になり、シェイプが忙しい時には百合に行ってもらったりしていた。女性の目で見たほうがユニークに映るものも当然あり、彼女は新しいプリント技術やシルクスクリーンを学んだり、自分には出来ない部分を大いに補ってくれた。

百合がカリフォルニアに行った時、彼女をケアしてくれたのがアーニー田中だった。彼はデューイ・ウェーバーやホビーといった老舗の名門ブランドが、時代の流れにおされて古いスタイルと言われ始めたときに彗星のごとく現れた。白人中心だったサーフインダストリーに日系人としてブランドを立ち上げるなど、成功を収めた先駆者となった。

百合がロスに到着すると、彼はまだアメリカに3台しかなかったポルシェで迎えにきてくれて、色々と案内してくれた。当時のセレブが集まるレストランにも連れて行ってくれたりと、サーフビジネスで成功すればこうなれるんだという、明確な夢を抱かせてくれる存在だった。

サーフ系ギアとして、なくてはならないリーシュコードも、かつては単なる“流れ止め”などと言われ、吸盤でボードのノーズに吸着させ、ゴムひもの先を手に持つという適当なものだった。僕らはこれに改良を加え、ショックコードにスイーベルを着け、足首には引っ張られると締まるように細工した革ベルトをあてがった製品を作った。百合は三人目が生まれる直前まで、このリーシュコードの生産に励んだ。各部品は秋葉原の卸屋に自転車で行って調達した。このリーシュを一番売ってくれたのが、ゴッデスから独立してJSPを立ち上げた斉藤氏であった。

1972年の冬は、ププケアにあるログキャビンで過ごし、レロイ・グラニスやマイク・パーパス、マーク・リービー、ジョン・グラニス達と生活を共にした。滞在中、マカハのレラ・サンのパーティに行った時に出会ったのが、その後TEDのライダーとなりサーフィン業界を一世風靡したリン・ボイヤーだった。
彼女はサンセットのビックウェイブをライディングする事でも有名な女性サーファーだったが、この時はまだ高校生だったため、ビジネスの話をするには早すぎた。ちなみにこの当時、サーフィンコンテストであるマカハ・インターナショナルに出場したパーパスは賞金700ドルを手にした。いよいよサーフィンの本格的なプロ化が始まったのである。同年、マイク・パーパスを日本に招聘したところ、500ドルでOKだった。まだ1ドル=270円だった時代だ。それまでも日本のサーフィン界では、誰それが来日する……という噂が流れたが、すべてはでまかせだったので、僕は是が非でもパーパスを呼びたかった。日本のサーファーは本場のサーファーや本場の情報にとても飢えていたので、タイミング的にもチャンスと割り切り、多少の出費は覚悟した。

少しは無しが逸れるが、オイルショックの影響はサーフィン界にも及び、プラスティックの材料も高騰した。そんな折、ちょうどマイク・パーパスがライダーを務めていたWAVEのサーフボードがハニカムで作られていたので、それを輸入してみようと決断。すぐさまヴエンチュラに飛んだ。その社長とは以前にも話に出たカール・ポップである。彼のアイデアは素晴らしく、それこそバットで叩いても壊れないほど丈夫なサーフボードだった。中身はほぼ空洞で、ノーズには空気圧を調整する弁がついていた。モールド成型の原型には有名シェイパーが参加し、その中にはディック・ブリュワーも名を連ねていた。ちなみに、その6’ 4″のサーフボードは現在、新島の博物館に展示されている。

パーパスから日本に行くぞというメッセージをもらい、僕はプロモーションを企画した。羽田に降り立った彼はトレードマークであるレンジャーハットを被り、関係者の歓迎を受けた。なかには浴衣姿で花束を持ってきた女性もいた。

彼が日本に到着した翌日には、太東でプロモーション活動をスタートした。彼が持ってきた真っ赤なボードにはWaveと記された銀のディケールが光り、デッキのテール寄りにはマジックテープが貼ってあった。右足にもやはりマジックテープが貼られたソックスを履き、沖へ向かった。

太東の防波堤にはパーパスをひと目見ようという大勢のサーファーで埋まり、その中にはスポーツ新聞社も取材に来ていた。パーパスは力強いパドルであっという間に沖へ出て、テイクオフ。アップエンドダウンの後に波のピークに向かうと、そこで右足とボードをマジックテープで固定し、そして右足を引きつつ左足を前に押し出すと、彼とボードは見事に一回転したのである! 初めて見るアクションに大きな歓声が上がり、興奮のるつぼであった。それらの光景はスポーツ紙の一面を二日間に渡って飾られた。それ以降、サーフィンが新聞の一面を飾ったことはないと思う。 次のプロモーション地である伊豆白浜では、白い砂浜と綺麗な水のおかげで多くの観客が集まり、大いに盛り上がった。その後、我々は新島へ行くと、パーパスが招待される全日本サーィン選手権大会のタレ幕を見てビックリ。村長までが歓迎の意を表してくれたのだ。パーパスにとっても、異国の地でこれほどの喜ばれたことは驚きだったようだ。母国アメリカでも、ここまで歓迎されたことはなかったという。

 

千葉でのプロモーションは、日大芸術学部の先輩である大須賀氏が16mmフィルムをアリフレックスで撮影してくれた。勝浦マリブの波が最高のときも来てくれて、パーパスは得意のカットバックを何回も披露し、それらの収録に成功。そのフィルムをアメリカ用に編集した。渡辺セイチャンや、後に大井でキッドサーフと立ち上げる成尾たちもコミカルな部分で出演してくれて、楽しい内容で波も良く、最高の出来映えだった。

パーパスとはいすみ川河口や、銚子の君ケ浜などでもサーフィンした。そのサーフィンを一目見ようと、海には情報を聞きつけた多くのサーファーが集まっていて、その様子もフィルムで撮影した。

パーパスは日本食に大満足で、特にしゃぶしゃぶが大好物になり、食費が嵩んだのには参ってしまった。一方、苦手なのはおにぎり。というのも、伊豆白浜で出てきたお昼のおにぎりに梅干が入っているとはつゆ知らず、ガブっとやってしまい、あまりの酸っぱさで涙を流した経験がトラウマになったようだ。

プロモーションは大成功であったが、予想以上にお金が掛かってしまった。しかし、パーパスが日本のサーフィン業界に残した功績は大きかったと思う。彼の乗っていたWaveは七万円から八万円もしたが、それでもよく売れた、しかし輸入は仕入れ金が先行しているのであまり儲けはなかった。ちなみにパーパスは後にWaveから独立してHot Lipsを立ち上げ、日本でもトレードマークであるデカい唇のディケールが入ったボードがお馴染みとなった。なかでも斬新だったのがジェットボード。ノーズのデッキ側からテイルのボトム寄りに穴を設け、ジェット効果を期待したものだったのだが性能はイマイチだった。それでもパーパスがこのボードでカットバックすると、スプレーがノーズから吹き出て、それが彼のライディングの代名詞となっていたのだった。このHot Lipsは今でも隠れファンがいると聞くが……。そしてこの後、彼は友人とカリフォルニア・エキスプレッションを立ち上げ大ヒットを飛ばすが、残念なことにその友人が利益を持ち逃げしてしまったそうだ。また、彼が持ってきたブランドの代表的なものと言えばトランクスのケイティンとウエットスーツのベイリーだろう。TEDは2つとも日本の総代理店を務め、なかでもベイリーのウエットスーツはもともとアメリカ海軍が使用していたものだったのだが、それをサーフィン用に開発。極寒地でサーフする人々にとっては画期的な製品で、北海道などからの予約が殺到した。完全防水で、暖かく、なおかつウェットスーツ=黒という既成概念から脱却するきっかけともなった。

マイクパーパス、ホットリップス ジェットボードと

斬新なアイデア、新しいライディング、プロフェッショナリズムなど、パーパスは日本に多くをもたらした。これにより、日本のサーフィン業界人たちの多くは、海外のサーファーと関係を築くことの大切さを知るきっかけともなったのかもしれない。

そんな彼はプロモーションを終えてアメリカへ帰国後、日本で撮影したのフィルムを携え、多くの学校で映画を見せながら日本の文化について講演、結構なギャラを稼いだようである。

1973年の春には、ハーモサビーチの高台にあるパーパスの家にお世話になった。パーパスの父はカイロプラテックの先生で、また経営者だった。弟のデニーはサーフィンよりもマリファナに忙しく、よくパーパスに怒られていた。3階建てで3階がダイニング、2階がリビング、1階は地下みたいに思えたのだが、これは傾斜地に建っているからだった。その1階が我々の寝室で、アメリカだったらまだ普通の家で通用したしれないが、日本ではどんな金持ちでも住めないような家だった。

毎晩のようにパーパス率いる仲間たちが集まりバーベキュー。日本ではまだバーベキューなんてまだまだ一般的じゃない時代だったから、毎晩肉が食べられることの嬉しさはもちろん、ビール片手に肉を焼く光景そのものにしびれたし、アメリカの豊かさに改めて感動したものだ。朝は起きぬけにスケートボードでコーヒーを買いに行く……など、彼のおかげでアメリカ人の夢のようなライフスタイルやサーフィンライフを16mmフィルムに収めることができた。そのシーンは後に作った僕のサーフィン映画、“サーフィンライフ”のワンシーンとなっている。

 

撮影には相当な時間と資金をつぎ込んだ。夏に稼いで冬はノースショアに籠もってひたすらフィルミング。いい映像を撮りたいがためにトイレへも行けず、人が見ていない隙に足下に穴を掘り、座ったふりをして用を済ますという独自の荒技まで身につけた。撮影中は飯も思うように食べれず、ガンジーさながらにやせ細ったが、最後にマーク・リチャーズとショーン・トムソンのオフ・ザ・ウォールでの2in1(1つのチューブに2人が入る)を撮れた時には、「あぁようやく日本に帰れる」と思ったものだ。この歴史的瞬間を撮っていたのは僕だけだったのでかなり話題になり、映画の終わりの映像として使われている。

1974年、すべての業務を東京神田から千葉外房の田舎町である岬町へ、ニューフロンティアを想い巡らせ移住した。しかしサーファーという人種もなにもない時代、ましてやこんな田舎町に色黒で長髪、時おり白人がたむろしていたのだから、近隣の住民たちは僕らのことを宇宙人と思っていたに違いない。

ファッションはまだヒッピースタイルが濃厚で、長女の授業参観にインディアンルック&三つ編みで登場した時には、さすがにまわりのお母さん方の目の玉が飛び出ているのがよく分かった。まぁ僕自身、一風変わったライフスタイルを過ごすことで、まわりが驚く姿を見て楽しんでいたようにも思う。とはいえ、移住した岬町は、他の海沿いの町に比べて住民が大らかでとてもウェルカムだった。サーフィンというビジネスを理解してくれる人が多かったことも助かった。

この時になると工場で働くスタッフの顔ぶれも大きく変わり、蛸操氏(シークエンス)、黒木保氏(クォーターサーフボード)、田嶋氏(ジャスティス)、高瀬幸之助氏など、その後の千葉エリアを代表する有能な若者たちがTEDのクオリティを支えてくれていた。

マイク.パーパス, TED阿出川, 黒木氏(Quater Surfboard) 田嶋氏(Justice) 蛸氏(Sequence)

アメリカ文化に餓えた若者で溢れていた時代だったから、TEDはまるでそんな若者たちの聖地のような存在だった。今では当り前に目にするノースフェイスのダウンジャケットなどは、仕入れれば当時の金額で3〜4万円でも飛ぶように売れ、ネルシャツなども段ボールで仕入れても即日完売。岬町のTEDへ行けばアメリカやカリフォルニアものに出会えると、都内や地方からも人が集まるほどだった。

なかでもビジネス的に笑いが止まらなかったのがプカシェルで、ハワイから日本を往復するスチュワーデスにシェルを持ってきてもらい、それを約七千円で購入。貝に穴を開けて紐を通し、ネックレスにしてアメ横に卸したり、ショップで売ったりすれば、10倍の利益を生んでくれた。しかし一年ほどでボタン屋が偽物を作りはじめ(どっちが本家か分からないが)、これ以上やるのは大損するのではと、危険と感じて手を引いた。

 

メディアにも多く登場した。雑誌のコラムなども担当し、なかでも雑誌ポパイの立ち上げなどにも関われたこと、サーフィンを競技スポーツとして紹介するというより、それをすることで得られる、健康で豊かなライフスタイルを日本に紹介できることが何よりも嬉しかった。

メディアといえば、めちゃくちゃだったのが日大芸術学部の後輩だったテリー伊藤に頼まれ、とある番組で雪山をサーフボードで滑るという企画に出演した時のことだ。スキーブーツをサーフボードに直に打ちつけ、石打を直下滑させられた。直下滑といえば、スキーの裏にローラースケートのローラーをくっつけ、上野の山を猛スピードで滑り降り、週刊現代に取り上げられた。しかし滑った仲間の一人が複雑骨折し、こんな危険なことは二度とやらないと心に誓ったものだった。

TEDが全盛期を迎えると同時にハワイから招聘したのが、先のマカハで出会ったリン・ボイヤーだった。 彼女の全国プロモーションをレッグの創立者である清水氏と共催し、九州から北海道までをサーフトリップして巡った。

九州はアクセスが悪く、波がない時期に重なってしまってプロモーションは不発だったが、そこから北上して巡った京都、大阪では反響も大きく、特に大阪のスポーツ・タカハシはその年の冬に200本以上ものサーフボードを買い上げてくれた。

北海道のウエストコーストというサーフショップにもプロモーションに行ったが、土地柄もあり経営はまだまだ困難な時代だったようで、やがて倒産してしまった。それでも店長の嵯峨圭介氏はビジネスで大成功をおさめ、今では家族でバリ島に移住し、サーフィン三昧の生活を送っている。本当に人生って分からないものだと思う。

リン・ボイヤーが日本のサーファーに知られた事により、レディース・サーファーのファッションもキャミソールやホットパンツなど、より海外のテイストが強くなった。

ハラルド.イギーと

彼女が使用していたサーフボードは、ハワイのハロルド・イギーがシェイプしていたもので、彼とはカリフォルニアのデューイ・ウェーバーの工場で会ったことがあった。その後イギーはウィンドサーフィンの世界でロビー・ナッシュと手を組み、世界ナンバー1の地位まで登りつめた。今ではスタンドアップ・パドルサーフィンの世界でも活躍していると聞く。リンは特にビックウェーブでのライディングが素晴らしく、ハワイのサンセットビーチでのライディングは男性顔負け。華奢な肢体からは想像も出来ないボトムーターンからのトップターンを描き、その意外性で多くのサーファーたちを虜にした。

リンに関連する商品も良く売れていたのだが、それとは関係なく、この時期いちばん売れたのが畳でできた畳サンダルである。本当に良く売れたが、梅雨時期になると畳がカビだらけになり、在庫の大半が売り物にならなくなってしまった。そこで次に登場したのがゴムサンダル。これもすごい勢いで売れた。他のサーフショップから、どれくらい売れていたのか? とよく聞かれた。店によると思うが、うちの場合は週末となれば朝5時から外でオープンを待つ人がいて、朝の10時にはお金でレジが閉らなくなったことさえあった。それと同時に百合の目を盗み、こっそりレジから一万円の札束を握りしめて六本木へ。

ビージーズが大音量で流れるディスコで飲んで踊って、気づけば裏のモーテルに……と、よくあれで商売やってられたなと思うと同時に、家族が逃げなかったのが不思議で仕方がない。

音楽と言えば、’70 年代初頭にイーグルスが登場し、サーフミュージックの先駆けのようなものに。個人的には六本木も好きだったけど、音楽はやっぱりカントリーの香りのするイーグルスが好きで、’77年にホテル・カリフォルニアがリリースされた時などは、ショップで毎日の閉店を告げるテーマソングに使っていた。

再出発

1978年、ゴッデスの鈴木正氏、ダックスの高橋太郎氏、静岡ジャックの星氏と立ち上げたサーフィン組織、JSO主催による第一回世界選手権をいすみサーフポイントで開催した。

レラ・サン、マーク・リチャーズ、ショーン・トムソン、ラリー・バートルマン、トム・キャロル、そしてリン・ボイヤーなど蒼々たるメンバーが集い、日本のトップサーファー達が彼らに挑んだ。

 

まだビデオも普及していなかった時代なので、世界トッププロ見たさで田舎町に多くの観客が訪れ、それなりの経済効果もあったのだが、この時の町長がサーフィンを理解していないあまりに、翌年の世界選手権の開催は拒否。先見の目があった勝浦市がこの世界選手権を引き継いで招致し、部原ポイントでの丸井オニールの前身となった。

 

立ち上げたJSOは我の強いショップオーナーたちの集まりで、話がまとまらないことが多くなった。そこで、この時すでに発足していたJPSAの中心にいたエド小川と話あい、JSOはJPSAに吸収されることとなった。仕方のないことだが、時代の流れも手伝ってコンペティションはこの時期を境にますます活性し、日本のサーフシーンはライフスタイルよりも競技趣向、成績が重要視される風潮となっていった。

やがて1980年代に入り、僕が思い描いていたサーフィンライフと、現実のシーンのギャップはますます広がり、埋めがたいものとなっていった。同時に世間のサーフィンブームが冷めはじめているのも心配だった。そんな時、1960年代のサーフィンライフを懐かしむ仲間たちと共にいすみ川河口でロングボード限定のサーフィン大会、『クラシカル・エレガンス』を開催した。

それは波乗りだけでなく、ファッションやスタイルも採点基準に含めるということで、参加するみんなが当時着ていたものを引っ張り出し、なかにはビンテージカーまで登場するこだわり様だった。僕が覚えている限りでは、この大会こそ最高のサーフコンテストだと思っている。このコンテストで優勝したのはマーボーである。

ちょうどこの頃だったと思うが、友人のマイク真木氏が息子がサーフィンを始めたというのを聞いた。そしてしばらく後、一通の手紙がショップに届き、それを書いたのは長男の蔵人だった。「サーフィンをはじめて、使っているサーフボードが壊れてしまったのでTEDのボードが欲しい」と、自分がサーフボードを持って写っている雑誌の切り抜きが同封されていた。こうして自分をプロデュースできる若者の姿勢に感動した僕は、サーフボードを彼に贈った。時を経て、真木ファミリーもこの岬町に移住し、今でも家族ぐるみで仲良くさせてもらっている。

コンテストの翌年のこと。ショップ&ファクトリーは、出入りしていた高校生が硬化し始めていたコップいっぱいの樹脂を炎天下の工場で放置してしまい、出火。建物は全焼し、サーフィン業界における最悪の火災事故を起こしてしまった。

僕はこのとき、息子の潤といすみ川でウィンドサーフィンをしていたのだが、ものすごいキノコ雲を見た瞬間に悪い予感がして、地元のオヤジさんが火事を伝えてくれた時には腰が砕けて動けなかった。

そんな時に強いのやっぱり女性で、妻の百合は一人その火災と奮闘。パニック状態の従業員が両手にワックスを持ってあたふたしているのを尻目に、金目のものを外に運んでいたというのだから流石のひと言である。

僕が現場へ着いた時には建物は崩れ落ち、鉄筋も水飴のように曲がってショップは跡形もなくなっていた。多くのもの焼失させてしまったが、なかでも一番ショックだったのが、マカハのサーフィン大会を撮った16mmフィルムや、今後サーフィンの歴史を伝えていく上で、大切な写真たちが燃えてしまったことだった。

火災にすべてを奪われてしまったがTEDだが、百合と話し合った結果、もう一度新しいショップでやり直そうと、アメリカから建材を輸入し、ハワイのモールを彷彿させるオールレッドシダーで出来たサーフショップを一年後にオープンさせた。

二人にとってこの建物はまさにドリームショップだったのだが、建てたと同時になぜだか僕らは、ビジネスへの情熱が下がり始めてしまっていた。

この時の気持ちについて、なぜだろう? と今でも百合とよく話す。ひとつ思い当たる理由、それはサーフィン業界はあの時期くらいから、リーシュはリーシュ業者、ワックスはワックス業者、ビデオや写真はフォトグラーファーと、すべてが細分化されてしまったこと。クリエイティブだったはずの商売が、商品を卸してお客に売るという、右から左の面白みのないものになってしまったのだ。

僕たちが初めてアメリカで見た、夢のようなサーフィンライフとかけ離れていく日々。お金の心配ばかりで大好きなサーフィンも出来なくなっていた。このままこのインダストリーに居続けては、二人とも夢を見れなくなってしまうかもしれない、僕らとってはそれが一番の恐怖だった。

そんなさなか、海外では1960年代、1970年代に一世を風靡したサーフブランドのオーナーたちが、自分のブランドを売り飛ばして新たな人生を歩んでいるという話を聞き、百合と真剣にこの世界からリタイアする事を考え始めていた。

ジェリーとマウイ.カナハで

時代はバブル、お金に溢れかえる日本。その影響はこんな田舎町にも浸透し、僕たちが所有していたショップの土地を、信じられない金額で買ってくれるというコンビニチェーンの社長が現れ、即答で売る事に決めた。僕は今の今まで、あらゆる事を思いつきでやってきた。失敗も多かったし、結果オーライなタイプの人間だが、妻曰く、この決断は今まで一番正しかったという。 

土地を売った金で全てのことを清算し、今度は川沿いのジャングルを購入した。二人で開拓し、そこでゆっくり川の流れとともに時間を過ごす生活をスタートさせた。同時に、自分たちが思い描いていた人生、サーフィンライフを楽しむために、自分たちが関わっていたインダストリーとはまた違うビジネスをスタートさせ、数年後にはとりあえず死ぬまでの間は困らない時間と経済的自由を手に入れる事もできた。

僕の持論だが、どんなにサーフィンが上手くても、六畳一間でカップラーメンを一生食べ続ける生活はしたくない。それはビッグウェンズデーの最後のシーンをみれば分かるだろう。

世の中はお金で買えないものもちろんあるけど、お金があることで救われる事もたくさんある。だから仕事も頑張って海で遊ぶ。一生懸命ビジネスをするから、それで得る海での感動は何よりも多くなるんだろう? こんな事を今の若者に伝えても、ジジイの戯言と聞き流されるかもしれないけれど。

ただアメリカを見たいからと、親に頼み込んで渡米して以後、いきあたりばったりの人生を僕は歩んできた。しかしドタバタだろうと夢を見つけ、そこに向かって進んできたことだけは自信を持っていえる。夢を見続ければ、最高のサーフィンライフを、楽しい人生を歩んでいけるいけるかもしれない……と、毎日を過ごすサーファーが一人でも増えてくれたなら、僕のハチャメチャな人生もまんざらではなかったのかなと思う。

ビーチで出会う多くの若いサーファー達の笑顔を見て、多くの仲間、波、自然、そして家族のおかげでこんなにも素晴らしいサーフィンライフを今なお過ごせていることに、今更ながら感謝している。

これからも目の前を流れる川の流れのように、気ままなサーフィンライフを送っていこう。

最後に、僕がサーフィンと出会うチャンスを与えてくれた父、清次郎に。僕のわがままを45年以上聞き続けてくれている妻、百合子に。

ありがとう。

TED阿出川

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