人はいろいろ。夢もそれぞれ。

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息子にジジの写真を見せると、その場をぐるぐる回り始めました。

ジジ = 体操 ジジは息子にいつもやる体操を教えてくれるのです。

以下の文は2000年3月15日に発行されたポカラ出版『七人の仕掛人』より。

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このまま日本にいたら自分はだめになる!

サーフィンを心から愛し、日本でサーフィン文化をメジャーにすることに熱中していた阿出川は、

『今までの人生に反省はあるけれど、悔いはない』と言いきる。

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まず、サーフボードの原料作りから始めなければならなかった点で、まさにそれはゼロからの出発だった。

その苦労は百合子さんが担当していたファッション部門でも同様で、Tシャツのプリントにおいては、使用するインクの開発から始めなければならなかったという。

 

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僕はサーフィン文化を通して、人生を楽しむ心の余裕と発想を日本に根付かせたかったんです。でも日本では相変わらず”大人になる事がわびしい”んですよね。好きでもない職場でむやみに残業するだけで疲れてしまう。そのエネルギーを遊びの中で何かに挑戦することに使う人が増えれば、もっと日本は良い方向に変わってゆけると思うんですけどね。

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パスポートを取得するだけで今では考えられない程の手間と時間がかかり、しかも渡航先で就労しないことを約束する誓約書、その証明としての親の預金残高証明書の提出なども義務づけられたという。

しかし、当時は1ドル360円の時代。国外に持ち出せるのはたったの500ドルだった。

「当然所持金はあっという間になくなる。それで、ガーデナーのバイトをすることになったんです。庭のメンテナンスに人を雇うのは、その頃のアメリカでもかなりリッチな家庭だった。この仕事のおかげで、豊かで余裕のあるアメリカのライフスタイルというのを自分の目で見ることができたんです。

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自分がどんな人々と付き合い、どんな環境に身を置くかは人生を大きく左右すると思います。そういった意味で、僕は日大芸術学部に入ってよかった。個性的で、非常識とか親不孝とかいった言葉にも動じないタイプが圧倒的に多かったから。あの環境があったからこそ、アメリカに行こうという発想が生まれたんです。もし無難という理由だけで経済学部あたりに入っていたら、サーフィンとは出会えなかったでしょうね。それどころか、好きでもない仕事にヘトヘトになって、新橋のガード下で若い社員に説教するつまらないオジさんになっていたんじゃないかな(笑)」

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